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日本漫画文化起源「日本讽刺漫画家」

时间:2022-12-23 11:25:33 来源:沪江日语

大家好,日本漫画文化起源「日本讽刺漫画家」很多人还不知道,现在让我们一起来看看吧!

「お笑い」と言えば漫才。「漫才」は、「漫才」と定着するまでに「萬歳」「万歳」「万才」などさまざまに表記されてきました。ここでは、その変遷から、関西のお笑いを中心に歴史をたどっていきます。

说到“搞笑艺人”,那便是漫才。它在定为“漫才”(这一名称)之前,曾有过「萬歳」「万歳」「万才」等各种各样的说法。那么在这里,我们将以关西的搞笑喜剧为中心,通过它的变迁追溯其历史。

「万歳」の誕生から吉本興業の始まり

从“万岁”的诞生到吉本兴业的开始

「万歳」は平安時代後期より記録が見られ、宮中や大名宅などで新年を祝う言祝(ことほぎ)の芸能「千秋万歳(せんずまんざい)」のこと。後に民家にも広がり、民家を回るものは室町末期に「万歳楽」、近世に「万歳」と呼ばれていました。大和万歳、三河万歳など、現在も各地で継承されています。

“万岁”在平安时代后期就有记载,是指在宫中或大名宅邸等地庆祝新年的祝词表演艺术“千秋万岁”。后来扩展到民间,在民间巡回的活动在室町末期被称为“万岁乐”,在近代被称为“万岁”。大和万岁、三河万岁等,至今仍在各地传承。

万歳は、扇を持って舞いながらことほぐ主役の太夫と、鼓を持って笑いを受け持つ才蔵の2人連れが基本。その後、万歳は笑いを主とする芸能に変化し、才蔵が主役になっていきました。現在の漫才で言えば"ツッコミ"が太夫、才蔵が"ボケ"。扇もその後、才蔵の頭を張る小道具に変化します。

万岁基本上是由拿着扇子跳舞的主角太夫和拿着鼓负责搞笑的才藏两人组成。后来,万岁演变成以笑为主的表演艺术,才藏成为主角。以现在的漫才来说,“吐槽”是太夫,才藏是“捧哏”。扇子也在那之后,变成了才藏头上的小道具。

万才(※「万歳」の大衆芸能への変化により、便宜上、以降は「万才」と表記)は江戸時代にはすでに生玉神社境内で興行化していました。万才の興行化で成功したのは、明治時代の末、大阪千日前に出演した江州音頭の音頭取り玉子屋円辰です。卵の売買から音頭取りとなり、軽口や俄(にわか、即興芝居など)で人気の名古屋万歳を習って融合。謎かけや物まねなどを取り込み、音頭と笑いが一体となる演芸を誕生させました。

“万才”(※由于“万岁”逐渐演变为大众表演艺术,为了方便起见,下文用“万才”表示)在江户时代就已经在生玉神社内盛行。而使万才的演出获得成功的,是明治时代末期在大阪千日前出演的江州领唱——玉子屋圆辰。从鸡蛋买卖开始到成为领头人,在俏皮话和即兴表演中学习融合了大受欢迎的名古屋万岁,还加入了猜谜和模仿等,诞生了领唱和欢笑融为一体的演艺。

1933年,大阪发迹的娱乐表演集团吉本兴业将这种新类型的喜剧带往东京,陆续将富有奇才的艺人收归旗下,奠定了演艺王国的基础。

エンタツ・アチャコの時代から2大興行会社の時代へ

从娱乐圈的时代到两大演出公司的时代

昭和初期に人気を集めたのは、初代・桂春団治とエンタツ・アチャコ。エンタツ・アチャコはたった4年のコンビでしたが、後世に大きな影響を与えました。三味線も扇も持たず、芝居もせず、自然体の会話だけで笑いを取る斬新な舞台。背広を着て舞台に立った最初の演者であり、「きみ」「ぼく」と呼び合いました。

昭和初期最受欢迎的是初代的桂春团治和横山Entatsu。横山Entatsu虽然只搭档了4年,却给后世带来了巨大的影响。不拿三味线,不拿扇子,也不演戏,(创造出了)只靠自然的对话来获得笑声的崭新舞台。他们是第一个穿着西装站在舞台上的表演者,并以“你”“我”相称。

仕掛け人は、近代漫才の父と呼ばれる東京大学卒の漫才作家・秋田實。それまでは卑猥で低級な笑いだった話の内容を、家族で楽しめる「無邪気な笑い」に変えたのです。昭和8年(1933年)に誕生した伝説の「早慶戦」は、レコードとラジオという新しいメディアに乗り、エンタツ・アチャコの人気は全国区になりました。

设计者是被称为近代相声之父的毕业于东京大学的漫才作家秋田实。他将在那之前猥亵低级的笑料,变成了能够和家人一同享受的“天真无邪的喜剧”。诞生于昭和8年(1933年)的传说中的“早庆战”,借助唱片和广播这两种新媒体,使横山Entatsu在全国范围内广受欢迎。

同年、吉本興業の橋本鐡彦総括部長の提案で、表記が「漫才」に統一されます。また、エンタツ・アチャコと並び、人気を呼んだ男女コンビがミスワカナ・玉松一郎。男性上位の社会の中で女性上位漫才の型を初めて作りました。

同年,在吉本兴业总部长桥本铁彦的提议下,将写法统一为“漫才”。另外,与横山Entatsu齐名的男女组合Miss Wakana和玉松一郎,在男性上位的社会中,首次创造了女性上位的漫才模式。

エンタツ・アチャコの近代漫才を作った時代は、映画がトーキーとなり、大衆娯楽の第一人気となった時代でした。歌舞伎や新派の興行会社だった松竹が、映画制作と配給に乗り出し、新設した新興キネマ演芸部で演芸興行を開始。東宝と組んだ吉本に対抗し、昭和14年(1939年)、大量の芸人を吉本から引き抜く事件が勃発します。

在横山Entatsu创作近代漫才的时代,电影演变为有声电影,成为大众娱乐的首选。曾是歌舞伎和新派演出公司的松竹,开始涉足电影制作和发行,在新设的新兴电影演艺部开始了演艺演出。为了对抗与东宝合作的吉本,昭和14年(1939年),爆发了从吉本手中挖走大量艺人的事件。

松竹から独立した新興演芸と吉本興業、芸人はほとんどどちらかに組み込まれ、大阪には、拮抗し対立する2大興行会社が誕生しました。

从松竹独立出来的新兴演艺和吉本兴业,艺人几乎都被编入其中,在大阪诞生了旗鼓相当的两大演艺公司。

第二次世界大戦以後から現在の「MANZAI」へ

从第二次世界大战后到现在的“MANZAI”

2大興行会社のうち吉本興業は、戦災により、ほとんどの寄席を失いました。吉本興業は演芸から撤退、映画興行を主軸にした経営に移行します。かたや松竹は、昭和22年(1947年)に戦災を逃れた道頓堀の映画館を寄席としていち早く開場。戦後初の寄席・戎橋松竹に芸人が集中し、戦後の演芸復興が始まりました。NHKをはじめ民放ラジオも開局し、お笑い番組が次々と作られ大人気になりました。

两大演艺公司中的吉本兴业,因为战争损失了几乎所有的演出场地,随后退出演艺圈,转向经营电影票房。另一方面,松竹于昭和22年(1947年)把幸免于战争的道顿堀电影院作为演出场地,并很快开幕。艺人集中在战后最初的曲艺场戎桥松竹,开始了战后的演艺复兴。以NHK为首的民营广播之声也开播了,搞笑节目层出不穷,大受欢迎。

昭和33年(1958年)には千日劇場が開場。続いて松竹は、洋画の映画館だった道頓堀の角座を、1000席を超えるマンモス寄席として開場します。角座は芸人たちのひのき舞台となります。昭和31年(1956年)に歌謡ショーでデビューしていた"かしまし娘"も、角座で大きな人気を博していました。

昭和33年( 1958年)千日剧场开张。紧接着,松竹将能容纳1000名观众的曾作为进口片电影院的道顿堀角座作为演出场地开场。 角座成为艺人们施展才华的舞台。 昭和31年(1956年)在歌谣表演中出道的“吵闹女子”,在角座也非常受欢迎。

昭和34年(1959年)、吉本興業が演芸興行を再開します。吉本興業は芸人不足を埋めるため、テレビ局と提携する方針を取りました。新人をテレビでスターにさせ、劇場へ出演させて観客を呼び、より人気を高めるという方法で成功したのです。

昭和34年(1959年),吉本兴业重新开始演出。吉本兴业为了填补艺人不足,采取了与电视台合作的方针。通过让新人在电视上成为明星,到剧场演出来吸引观众从而提高人气的方法获得了成功。

昭和40年代半ばには民放ラジオの深夜放送をきっかけに、上方落語ブームが到来。笑福亭仁鶴や桂三枝ら若手落語家の人気が急上昇しました。ところが全国から演芸場に押し掛けた観客は、昭和45年(1970年)の大阪万博をピークに去り、漫才は急激に低迷。昭和50年代には演芸場が次々と閉館しました。この時、漫才界で活躍していたのは昭和41年にコンビを組んだ横山やすし・西川きよし。ボケとツッコミが交互に入れ換わる、スピード感あふれる新たなしゃべくり漫才で爆笑を得ていました。

昭和40年代中期,以民放台广播的深夜广播为契机,京阪落语热潮来袭。笑福亭仁鹤和桂三枝等年轻单口漫才演员的人气急剧上升。然而,从全国涌向演艺场的观众,在昭和45年(1970年)的大阪世博会达到顶峰后离去,漫才迅速陷入低迷。昭和50年代,演艺场接连闭馆。此时,活跃在漫才界的是昭和41年组成搭档的横山安乐和西川清。逗哏和吐槽互相交替,充满速度感的新颖漫才让观众爆笑。

漫才の低迷を打開しようと、漫才の若手演者と漫才作家を養成する"笑の会"が発足。相談役に秋田實、その後、村長として藤本義一が引き継ぎ、昭和53年(1978年)に東京・紀伊國屋ホールで公演。翌年の公演で文化庁芸術祭の大衆芸能部門で優秀賞を受賞し、この東京公演から漫才ブームへと繋がるきっかけが生まれました。

为了打破漫才的低迷,培养漫才年轻表演者和漫才作家的“笑之会”成立了。秋田实担任顾问,之后,藤本义一作为村长接任,昭和53年(1978年)在东京纪伊国屋大厅进行公演。第二年的公演获得了文化厅艺术节的大众演艺部门的优秀奖,本次东京公演也引发了漫才热潮。

「漫才」から「MANZAI」へ。昭和55年(1980年)から2年間、テレビに乗って怒涛のような漫才ブームが起き、テレビはお笑い番組一色に。テレビと繋がり、お笑いを提供してきた吉本興業は、昭和57年(1982年)、吉本総合芸能学院(NSC)を設立。ダウンタウンらを世に送り出し、全国を席巻していきます。

从“漫才”到“MANZAI”。从昭和55年(1980年)开始的2年时间,电视上掀起了热烈的漫才热潮,清一色的都是搞笑节目。吉本兴业与电视台相关联,一直提供搞笑节目,昭和57年(1982年),成立了吉本综合演艺学院(NSC)。将DOWN TOWN等搞笑艺人推向世界,红遍全国。

長く続いた師弟制度は影をひそめ、漫才の会話のスピードはより速く、ネタもコント形式のものなど、低年齢化する観客に向けて多様な笑いに細分化され始めます。

持续了很久的师徒制度销声匿迹,漫才的对话速度变得更快,段子以短剧的形式出现,也开始面向低龄观众细分笑料。

21世紀の漫才は、これからも時代と共に変化していくでしょう。

21世纪的漫才,今后也会随着时代的变化而变化吧。

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